裁判員制度は即刻廃止して、被告人の権利を保障する司法制度改革を行え!
裁判員制度って、非常にいかがわしい制度だと思う。
うたい文句は「開かれた司法」「身近な裁判制度」と、私たち国民の利益を説いているが、その中身について表面的にしか知らない国民が多いというのに、「開かれた司法」「身近な裁判制度」などというのは、悪い冗談としか思えない。
この制度のいかがわしさの第一点は、
国民は嫌がっている(『参加したくない』という国民が約七割)のであって、国民の意思が盛り上がってできたものではないということ。
魚住昭著「官僚とメディア」によると、
この制度導入を目玉にした司法制度改革はもともとは経済界と自民党が主導したものだった。その出発点は、バブル崩壊後の94年に経済同友会が発表した「現代日本社会の病理と処方」と題する文書だったと言われている。この文書で、同友会は法曹人口の大幅増員を求めた。
97年に自民党の安岡興治代議士(弁護士。のちに法相)らが党司法制度特別調査会を立ち上げたのをきっかけにまず法務省が「改革の流れを利用し、司法にかかわる人員の大幅増員を勝ち取ろう」(朝日新聞)と同調し、それに最高裁や日弁連が加わって99年7月に司法制度改革審議会が設置された。
中間報告では刑事裁判の迅速化と効率化だけが強調され、企業法務にかかわる弁護士を大量に増やすという意図が明確だった。早い話が小泉政権時代に勧められた規制緩和・構造改革路線の司法版である。そのためか、被告が無罪を主張すると一年でも二年でも身柄を拘束され続ける「人質司法」や、冤罪の温床とされる代用監獄をなくそうとする姿勢は全く見られなかった。
つまり、不況の原因を作った小泉政権が行った市場原理主義に基づく改革の司法版が「裁判員制度」というもので、「弁護士の数を増やして弁護士を安く大量に雇いたい?企業」と「刑事裁判を迅速化効率化したい法務省(もう一つの法務省の狙いは国民ローラー作戦で全国民の思想調査をすることじゃないだろか?)」と「弁護士の仕事が増えると歓迎する日弁連」の利害が一致して導入が決定されたとでもいうべきものであり、国民の意思は全く問われていない。だから、この制度が国民の利益になるはずがない。国民が「裁判員制度」に参加を義務付けられることは、法務省、法曹界の利益と企業利益に利用されるだけのことで、私たちには、苦役があるばかりだ。
「開かれた司法」「身近な裁判制度」などと国民に甘い言葉をささやいているが、利用料金や税金は安くなり利便性が上がると国民の利益を説いて、実は逆をもたらし、狙いは国民の財産を徹底して搾取するつもりの郵政民営化と同じ詐欺的な匂いがする。
そもそも、刑事裁判に求められるべきは、迅速化や効率化ではない。
麻原彰晃主任弁護人を務めた安田好弘氏著の「「生きる」という権利」から抜粋させてもらうと、刑事裁判に求められるべきは、下記のごとし。
検察官は、被告人を起訴した以上、有罪を立証すべき義務があり、被告人は、これに全面的にかつ無条件に争う権利を有し、裁判所は、その権利を保障しなければならない。
検察官が立証に失敗すれば当然に無罪。
被告人が全面的に争い、仮に有罪となったとしても、争ったことが、いかなる意味においても非難されてはいけない。そうでない限り、争う権利を認めたことにならない。争う権利を認めないところに無罪推定はない。無罪推定が認められないところに刑事司法は存在しない。
ということで、もっともと頷けるが、さて、裁判員制度以前の問題で、現在の裁判制度のもとで、被告人は全面的に争う権利が認められているだろうか?検察官が立証に失敗すれば当然に無罪となっているだろうか?
安田弁護士自身が、検察官が作ったスト―リにより「強制執行妨害事件」で、逮捕起訴されたが、検察官は立証に失敗するどころか、安田弁護士が無罪である動かしがたい証拠が出てきたにもかかわらず、東京高裁(池田耕平裁判長)は、安田の強制執行妨害共謀を認め、第1審(東京地裁)の無罪判決を破棄し、罰金50万円の逆転有罪判決を下した。
和歌山カレー事件では、状況証拠だけで、林真須美被告の死刑が確定した。
検察が、立証に失敗しようが、無実の証拠が出てこようが、検察が起訴すれば、裁判官は、検察の言い分通りに判決を出すような現在の司法には、被告人の権利は、全く保障されていないと言っていいだろう。
さらに、安田氏著書によると、オウム教祖麻原彰晃氏が、死刑判決を受けた一ヶ月後の2004年5月22日、内閣直属の司法制度改革推進本部が作成した刑訴法改正法案が国会で可決、成立した。その内容は、下記のごとしの改悪。
弁護人は、第一回公判前の事前準備手続きに出頭し、在籍し、弁護人の主張の内容と請求しようとする証拠を明らかにしなければならない。後半は連日開廷することを旨とし弁護人は努力してこれに協力しなければならない。弁護人が事前準備手続きや公判に出席または出廷しない時、途中で退席または退廷したとき、裁判所は別に弁護人を選任することができる。さらに、裁判所は、必要がある時は被告人に直接意見を聞くことができ、その場合は、弁護人に被告人と連名で意見を提出することを求めることができるとある。
安田氏は、この刑訴法改正法案について、こう↓述べている。
私たちの戦いは、完全に潰されてしまった。裁判所は、戦う弁護人とは別に戦わない弁護人を選任することができる。これは、弁護人抜き法案と実質的に同じである。弁護人は、検察官の主張立証を全面的に争う前から、自分たちの主張と証拠を明らかにしなければならない。連日裁判の下では時間に追われじっくりと争うことも不可能である。くじけそうになる被告人の意思を超えて弁護をしようとするとき、裁判所はこれに介入して弁護方針の変更を迫ることができる。
無罪推定の原則も検察官の全面的な立証責任負担の原則も、直接主義、口頭主義、公開主義の原則も、公正・公平な刑事裁判を支えてきたすべての原則が、ことごとく放擲されてしまった。
刑訴法改正法案で、被告人は圧倒的に不利な立場に追い込まれることになった。こういう法の下、裁判員制度は、素人の裁判員を交えて裁判が行われるわけだが、被告人の権利は、全く顧みられないこんな欠陥司法制度のもと、検察に起訴されてしまったら、無実であっても晴らすことは不可能だろう。素人の裁判員が混じったところで、なにもできるわけではないだろう。むしろ、素人の裁判員には何もできないだろうと思って、裁判員制度は導入されているのだろうと思うけど。こういう裁判の中身があって、「開かれた司法」「身近な裁判制度」といわれても納得できない。私たちは、裁判員になるばかりではなく、被告人になる可能性もある。
また、裁判員に選ばれると、仕事を休んだりして連日の裁判に出席しなくてはならないことや守秘義務を課せられているということも考えると、国民にとっては、まったく何のメリットも見いだせない。ま、国民は、企業と法務省と裁判所と日弁連のダシに使われているだけなので、何のメリットもないのは当然ではある。
それにしても、裁判員制度以前の問題として、検察の思い通りになるような司法制度に改悪して、恣意的な逮捕起訴がまかり通り、それに形だけの裁判をベルトコンベアのように粛々と進め検察の求刑通りにしてしまう国とは、国民を煮て食おうと焼いて食おうと検察の好き放題の国ということで、北朝鮮並みの恐ろしい国なのではないのだろうか。
また、こちらの法務省裁判員制度コーナーのリンク集を見ると、検察庁ホームページと 最高裁判所ホームページと日本弁護士連合会ホームページが、仲良く並んでいる。検察官と裁判官がお友達とは知っているけど、もしかして弁護士もお友達?日弁連も国策に取り込まれてしまっているとしたら、裁判員制度以前に、司法は相当深刻なことになっている。こんな司法では、被告人は、たまったものじゃない。
とにかく、
国民のための司法制度改革というなら、判検交流の禁止をして判事と検事の癒着を断ち切るとか、取調室の可視化を義務付けることや「人質司法」や、冤罪の温床とされる代用監獄をなくし、冤罪をなくす努力をすべき。
そして、重大犯罪での刑事裁判では、高度な専門知識が要求される。そんな専門分野で素人が判断することは、素人がメスを持って心臓手術をするようなもの。そんなことが許されるはずがない。
裁判員になることは、国民にとっては苦役でしかなく、主権者国民は裁判員制度を嫌がっているのだから、即刻廃止するというのが、民主主義国家というものだ。
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