1945年8月6日午前8時15分、広島にウラン型原子爆弾、8月9日、長崎にプルトニウム型原子爆弾が、テニアンから発進したと特殊任務機によって投下された。
あの朝、広島市には、35万人がいた。爆心から半径2キロメートルが灰と化し、鉄は熱で曲がり歪んだ。核爆発は、一瞬で、数万人を殺し、この年の末までに14万人が犠牲になった。生き延びた者は被ばく者として、放射線の影響による苦痛とともに生きなければならなかった。その数20万人。
下に紹介する動画「広島の黒い太陽」(NHKBS・フランステレビジョンの国際共同制作)では、
大量殺りく兵器原子爆弾は、一体どのようにして開発されていったのかとか、
原発が「マンハッタン計画」を進めている中で誕生したと言うこともわかる。原爆の材料プルトニウムを作るために原子炉はできたのだから、考えてみれば当たり前だ。
そして、アメリカは、内部被ばくや残留放射能を否定し、原爆をきれいな爆弾と言いながら、核開発当初から「放射能の人体への影響」について、数々の事故や人体実験をし、また、被曝者やその子供達すべてを精密検査して、データを蓄積していた事実が浮かび上がる。
ヒロシマの黒い太陽1 投稿者 PMG5
冒頭に出てくるのが、下記のエドワード・テラーの言葉だけど、テラーの自慢のような気もする。原爆は、俺が、秘密裏に誕生させたんだみたいな。
核開発に関わるすべては秘密裏に誕生した。―エドワード・テラー
アインシュタインがルーズベルト大統領に送ったとされる手紙が紹介されていた。
【1939年8月2日 アインシュタインの大統領宛ての手紙】
「ここ4カ月の間にフランスのマリー・キュリーとアメリカのフェルミ、シラードの研究によって大量のウランに核連鎖反応を起こし巨大な力とウランに似た新しい元素を放出する事が可能となるかもしれない。それは爆弾の製造にも適用されるだろう。この爆弾は船で港に持ち込んだとすれば一発で港のすべてを破壊するほどだ。」
アインシュタインと大統領の共通の友人である資産家がホワイトハウスに手紙を届けた。ルーズベルトの反応は、こうだった。「つまり君はナチスに我々を爆破させたくないというのだね」
手紙が届いた10日後、ルーズベルトは科学者と軍人からなる諮問委員会を作り、ウランと核分裂の可能性を探る。
アインシュタインからの手紙が、マンハッタン計画を始めるきっかけだったことは間違いないが、「「原爆ホロコースト」の実態~ 「原爆」と「冷戦」の舞台裏 ~」によると、
ちなみに、シラードがアインシュタインに自分のアイデア(核連鎖反応)を話したところ、アインシュタインは「考えもしなかった」と驚いたという。アインシュタインは、シラードが手紙を持ってきてから2週間悩んだすえに、署名したのだった。
※ アインシュタインは手紙に署名しただけで、「マンハッタン計画」には参加していない。彼は、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。
どうやら、アインシュタインは、知名度を利用されて、「マンハッタン計画」のきっかけにされたということらしい。
アインシュタインの手紙をホワイトハウスに届けた、アインシュタインと大統領の共通の友人である資産家とは、レオ・シラードでいいのかな?下の写真の人。資産家と書かれたところはなかったけど。こうした、手紙を届けるところが逐一撮影されているというのも、何か不自然な気がする。
ホワイトハウスの科学顧問でカーネギー研究所の総長であったバーネバー・ブッシュはアメリカの科学と産業の力を結集しようとしていた。指導的科学者たちをワシントンに招集し、軍産学共同の組織づくりを強く主張した。
イギリスでは、ドイツをはじめヨーロッパ各地からナチスの手を逃れてきた研究者が力を発揮、研究成果が蓄積していたが、1940年9月、ロンドン大空襲と、対ドイツ戦に孤軍奮闘。イギリスには原子兵器を秘密裏に開発する余力はもはやなく、友好国アメリカにこれまで蓄積してきた研究成果を託すという決断をする。ワシントンの政府中枢にモードレポートという名の報告書が届けられた。
【1941年7月15日 モード委員会の報告】
「我々はウラン爆弾を作る事が可能だという結論に達した。25ポンドほどの活性物質を含むその爆弾はTNT1800トンに匹敵する破壊力を持つ。また大量の放射性物質を放出し長期間爆破地域を汚染するであろう」
もうこの時点で、残留放射能の長期間汚染が認識されている。アメリカ軍は、原爆投下において、残留放射能はないと言いきっていた。
このモードレポートで、ルーズベルトは核兵器の開発にGOサインを出す。大統領直轄の極秘計画だった。
1941年10月19日 ルーズベルトは、核開発計画を許可。以後、アメリカの核開発は議会に図る事無く政府中枢の一部が知るプロジェクトとして進んで行く。20億ドルという巨費が投じられた。
核物理学に関しては軍の検閲が開始。科学雑誌は核物理の進歩を伝える役目を放棄する。戦時体制に入ったということですね。
1941年12月8日に日本軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃があり、日本は、アメリカを世界大戦の戦場へ引きずり込みルーズベルトは遂に連合国と合流した。戦火は世界5大陸に拡大。
1942年9月、レスリー・グローブス将軍が開発計画トップに任命される。彼はまず原爆開発と産業界を結ぶ事に奔走。本部はニューヨークのマンハッタンに置かれ以後、核開発計画は「マンハッタン計画」と呼ばれる。
彼は、原材料調達に不安を持っていたが、ベルギー領・コンゴのウラン鉱山の所有者ベルギー企業、ユニオンミニエール社でコンゴ鉱山の差配人、エドガー・サンギエは、1940年にベルギーがドイツに占領されると、コンゴにその手が及ぶ前に全てのウラン原石をマンハッタン島向かいの波止場の倉庫へ運び出していた。手回しがいいですね。開発初期のウラン1250トンは確保された。ユニオンミニエール社は向こう3年間で4億ドルの代金を受け取る。
グローブスは多くの科学者の研究成果を統合できる人物として、カルフォルニア大学バークレー校の理論物理学者ロバート・オッペンハイマーを選んだ。
1942年12月2日、大都市シカゴの真ん中でイタリア移民のエンリコ・フェルミが十数人の科学者と核分裂を連鎖させる実験、世界初の原子炉のテストに成功。シカゴ大学の屋内競技場は、グラファイトとウランを結合させた大きな塊に占領された。積み上がった塊の重さは350トン、プロトタオプCP1である。もちろん軍事機密、大学・学生・市民と誰ひとり知らされていない。
この実験に、特別に立ち会った化学工業・デュポン社の技術主任だったクロフォード・グリーンウォルトの日誌では、この新しいエネルギーが人体に与える影響について言及していた。
【1842年12月2日日誌】
「室内の中性子線のレベルは認可されている量を上回った。ガンマ放射線が24時間単位の人体への許容限度をやや超えていた。実験結果は期待以上のものだった。スリリングな体験だった」
この日誌は1989年まで軍事機密として扱われた。デュポン社は、1935年にナイロンを発明したアメリカ有数の大企業である。そのナイロンの発明以前、南北戦争時代から第1次世界大戦までアメリカ第一の弾薬供給企業だった。マンハッタン計画責任者のグローブス将軍は原爆開発を実用レベルに進めるため機密を守れる大企業を探していた。ウラン・プルトニウムといった高い放射性物質を扱うには危機管理もしっかりできるコングロマリット複合企業体が必要だった。
アメリカ西海岸のシアトルから350キロ南に位置するハンフォード。デュポン社は1500k㎡の土地にプルトニウムの製造と精製施設を建てた。8万5000人が働き、およそ1年半で、3基の原子炉と100万人に水を供給できるほど巨大な浄水場を作った。
一方、テネシー州のオーク・リッジではウラン235やその他の爆弾原料を生産した。コダック・モンサント・GEが施設を運営する。
1グラムの核燃料を精製するのに数トンのウランが必要。ベッドタウンとして建設されたオーク・リッジの町に住む作業員の数は数万人。皆、秘密保持の誓約書にサインした。作業工程は分割され、多くの人は終戦後に初めて自分が何を作っていたかを知った。
グローブスはマンハッタン計画の司令部をニューヨークからこの町に移した。ストーン医師はグローブスにオーク・リッジの住民たちに定期的な医療検査を行い追跡調査するよう忠告する。
「職員の臨床研究は大規模な実験になる。これほど沢山の人間がこれほどの放射能に晒されるのは史上初なのだから」(ストーン医師 1934年)恐ろしい医者がいるもんだ。核燃料精製という作業の内容を知らせず人体実験。
ハミルトンは1939年から、動物に対する放射線テストを行っていた。放射線による治療効果を信じて疑わなかった。
放射性ヨウ素の溶液を飲ませ、ガイガーカウンターで放射線が、人体内部に広がって行く様子を調べる実験などを行った。これが治療とは思えない。人体実験をするヒドイ医者。
彼は放射性物質が軍事利用できるとも考え始めていた。
【1943年 ハミルトン医師】
「航空機から放射性物質をばら撒けば一つの都市に匹敵する範囲を汚染する事が出来る、飲料水に混ぜる、井戸を汚染する、食物に入れる、これらの可能性も検討に値する」
【1943年5月25日 オッペンハイマーからフェルミへの手紙】
「放射性物質食物汚染についてあなたと話したいと思います。この件はもう少し深く生理学的な側面についてハミルトンと一緒に検討するつもりです。彼はストロンチウムについていくつかの極めて有効な研究を行っています。しかし計画を遅らせた方が良いというのが私の意見です。50万人を殺せるぐらい食べ物を汚染できない場合は計画を試みるべきではないと考えます」
科学者、医者が、大量殺りくを一生懸命に考えていたのがよくわかる。「マンハッタン計画」は大量殺戮核開発計画ですもんね。
原爆開発が最優先され放射線物質の軍事利用は研究課題とされた。
1942年の夏、ドイツは核開発を諦めていた。連合国側は知るよしもなかった。ホントはわかってたんじゃないのかな?
1943年春、オッペンハイマーの提案により、ニューメキシコ州、岩の多い丘稜と砂漠に囲まれたロスアラモスに原爆製造のための実験設備と研究所が建てられた。砂漠によって周囲から隔絶された秘密軍事基地。容易に近づく事も出来ない。ここは今もなお重要な軍事研究施設となっている。1945年までに2000人を超える科学者がここで日夜、世界初の核兵器製造を目指した。研究者・エンジニア、技術者の平均年齢は30歳以下。家族とともに塹壕を巡らせた施設内で外部との接触を断って暮らしていた。
1943年、ヨーロッパではドイツ軍の侵攻がスターリングラードで食い止められた。ロシアの冬に疲れたドイツ第6軍は、遂にソビエト軍に降伏する。
その年の夏、カナダのケベックでチャーチルとルーズベルトが会談する。イギリス・アメリカ・カナダは「マンハッタン計画」の実現に向け結束を固めた。カナダにはウラン鉱山があり、3年間でアメリカに1000トンを超える鉱石を供給する事になる。イギリスからは20人の科学者がロスアラモス研究施設に。このケベック協定で原爆開発の国際的な協力体制が築かれた。
1944年夏、原爆材料の製造と精製がフル回転で行われた。ハンフォードではプルトニウム、オークリッジではウラン。しかし、まだ原爆を作るのに必要な量は得られていない。
デュポン、モンサント・ゼネラルエレクトリックの工場では放射線の人体へ与える影響が、今だよくわからないまま、作業員は日常的に放射線に晒され続けていた。
8月1日、ロスアラモスの実験室で事故が起こる。23歳の若い科学者、ドナルド・マスティック。彼が実験中、試験管の中でプルトニウムが反応を起こし試験官が割れ、飛び散った溶液が口の中に入った。ヘップルマン医師が直ちに診察しオッペンハイマーに報告した。
ヘンプルマン医師は放射線物質の研究プログラムを拡大するよう提案する。
「どんな予防措置をしてもこの手の事故はまた起こると思います。その時のためにこの方面の研究を続ける意義はあると思います」(ヘンプルマン医師の報告)
「最も急を要した問題は、我々の使う物質の毒性を判定する事であった。まずウラン化合物、ラジウム、ボロニウムなど、これらの物質が人体に入りこむ経路の研究が必要となった」(グローブスの回想録)
ヘンプルマン医師は放射線物質の体内被曝について調べ始める。職員には内容を知らせず極秘調査だった。
「放射線の生理学的研究を動物や人体を使って開始する意義はあるだろうな。ロスアラモスではなくどこか別の施設でやってほしい」(1944年 オッペンハイマーの返書)
「ロチェスターの病院で患者を選び10マイクログラムの放射性物質を注射し、その後の分析は我々の実験室で行うというのが良いと思います」(1945年 ストーン医師)
体内に放射性物質が入った時、どの程度の量までなら許容出来るのか。その許容量を研究する事が急務だった。←ということを理由に、人体実験は始められたということね。
1945年春、ヘンプルマン医師はほかの患者たちに実験を拡大する為のGOサインを得る。
「ついに最初の人体実験を行う日が来た。これで我々の試験法を正確に評価できるようになるのだ」(1945年4月 ヘンプルマン医師)
様々な健康状態の患者がロチェスター・シカゴ・オークリッジ・バークレーの病院で選ばれた。およそ5ミリグラムのプルトニウムの投与には特別に鉛で覆った注射器を使用した。
初期3回の人体実験で早々と動物実験との比較結果が裏付けられた。プルトニウムはラジウムより30倍も有害で強力な発ガン性を持っていた。後にヘンプルマンはこう打ち明ける。
「患者には注射器の中身を知らせないという方針がなされた」(1994年 公聴会 ヘンプルマン医師) 知らせたら承諾するわけない。患者が知らないうちにモルモットにして平気とは恐ろしい医者ですね。
1944年夏、ソビエト軍はポーランドに侵攻。連合軍はノルマンディー上陸を果たしヨーロッパの戦争の終わりは、もはや疑いの余地がなかった。
太平洋では12万8000人のアメリカ兵がサイパン島を奪回する。そこに東京を爆撃圏内にするB29爆撃機の出撃基地を設置した。
1944年9月18日 ハイドパーク会談、チャーチルとルーズベルトはニューヨーク州ハイドパークで再会。何が何でもマンハッタン計画を成功に導くべきだと確認する。
「原爆の件では世界に知らされるべきだとの提案は受け入れられない。今後とも最高機密とされるべきである。しかしこの爆弾が使用可能となればおそらく熟慮の後、日本人に対して使用され、降伏するまで繰り返されるだろうと警告すべきである」(ハイドパーク協定より)
ルーズベルトとチャーチルは1944年の時点ですでに世界初の原子爆弾の標的国を日本と指名していた。
1944年秋、グローブス将軍に組織された特別部隊がフランス東部ストラスブールでドイツの核開発プログラムが2年前に中断されていた事をついに突き止めた。
こうしてマンハッタン計画を推進する原動力であったナチスの脅威は泡と消えさる。
1945年2月 ヤルタ会談 スターリンはドイツ降伏後の90日後に対日参戦することを約束。どちらが先に日本列島を占領するのか日本の運命はまだ決まっていなかった。
硫黄島の攻略により、アメリカ空軍B29が自由に日本上空を飛べるようになり、日本列島の破壊が進んだ。東京を含む大半の大都市が集中的に爆撃を浴びる。空襲で30の都市の中心地が50%以上も破壊され800万人の人々が疎開した。
1945年3月10日 東京大空襲、焼夷弾が一夜にして日本の首都を火の海にし10万人の死者を出した。国中が飢え、食料だけでなく燃料、弾薬も不足していた。海軍も壊滅状態、帰りの燃料も無い間に合わせの飛行機で特攻隊員が最後まで戦った。
1945年4月12日 ルーズベルト大統領 死去。副大統領だったハリー・トルーマンは、大統領に就任。副大統領にすらマンハッタン計画は隠されていた。陸軍長官スティムソンが重大な秘密を告げる。
1945年4月16日、トルーマン大統領就任演説
「ドイツと日本に告ぐアメリカはあらゆる軍事抵抗がなくなるまで自由のために戦い続ける。我々の要求は変わらない無条件降伏のみである」
アメリカは無条件降伏が天皇制を保持したい日本にとって受け入れがたい事をよく知っていた。
1945年5月8日 ドイツ軍降伏のニュースが世界に流れた。ヤルタ会談の秘密協定に従い、スターリンはソビエト軍の対日参戦の準備を始め、まず満州に部隊を結集させる。
1945年7月15日 ポツダム会談が行われる。この日は、ニューメキシコ州アラモゴルドで初の核実験が行われる予定だった。オッペンハイマーは実験をトリニティー(三位一体)と命名。成功。もはや問題は原爆を日本へ使うかどうかではなく、使うのはいつどのようにであった。
「爆弾の効果を十分に発揮するには、既に爆撃され破壊された都市は避けるべきだ。山で囲まれた適度な大きさの都市が良い。それによって爆弾の威力がより見極められるだろう」(ターゲット委員会)
しかしこの条件を満たす都市は少なかった。原爆投下の候補に挙がったのは新潟、小倉、広島。いずれも工業と港の町で特に広島はマンハッタン計画の責任者グローブス将軍が自ら押していた。
「この地は規模からいって理想的だ。都市の大部分が被害を受けるだろう。周りを囲む丘が丁度被害を市街地で止める。それにより破壊の規模をハッキリと見る事ができる」(グローブスの回顧録)
日本人に原爆投下を予告すべきかどうか。シカゴの科学者グループは意見を表明した。
「日本に対し予告なしに核爆弾を使用する事は賢明ではない。もし合衆国がこの新しい無差別な破壊手段を人類に対して初めて使用する事になれば世界中の支持を失うだろう」(フランク・リポート)
シカゴの科学者の一人、レオ・シラードはワシントンに一人乗り込み国務長官と面会する。しかし国務長官バーンズの反応は厳しかった。
「我々はこの爆弾の開発に20億ドルを費やしてきた。議会はその金で何が得られたかを知りたがるだろう。すでに使った金の結果を見せないでどうやって原子力研究に予算を付けてもらう気かね」(レオ・シラードの回想)
この時期、連邦議会は膨大な使途不明金に関心を持ち始めていた。マンハッタン計画はいずれ国民に説明しなければならない。爆弾は標的に対して使われない限り、目には見えず無用なものとなる。
「事前にいかなるデモンストレーションをしても戦争を終わらせる事は出来ない。直接の軍事使用以外に選択肢は無い」(暫定委員会科学顧問団 見解)
6月1日、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、科学者と産業界代表団との会議に臨んだ。アメリカは戦後を睨んだ核開発計画を立案し、すでに大枠をまとめていた。
「マンハッタン計画は戦後も引き続き継続されるべきである。施設を無傷のままに保ち軍事目的ばかりではなく産業、技術ようにも相当規模の原料を備蓄する。そして産業開発に門戸を開く」(戦後の核開発計画)
相当規模の(核爆弾)原料の備蓄と産業開発として原発を、誕生させるってことだよね。
1945年6月末には、アメリカ軍が沖縄本島を占領する。太平洋戦争で最も激烈な戦場だった。1万2000のアメリカ兵と10万の日本兵が死に、それ以上の市民が犠牲となった。
沖縄は日本本土を守る最後の砦だった。東京では天皇を犠牲にせず戦争を終わらせる交渉手段を模索し、外交官がソビエトに仲介を求めモスクワとの接触を試みていた。
7月7日トルーマンとバーンズは巡洋艦オーガスタに搭乗しポツダム会談に向かう。大西洋を航海するさ中、アメリカ海軍諜報部は日本の外務大臣のモスクワ宛て緊急メッセージを傍受する。
「日本人が戦争を終わらせたがっているという証拠が初めて手に入った。我々が傍受した東郷外相からモスクワの佐藤大使に宛てた電文によると出来れば3大国の会談に出発する前にそれが無理なら会談直後に外相モロトフと会って戦争を終結させたいという天皇の強い意志を伝えるよう指示している」
「更に連合国の無条件降伏要求が戦争終結を妨げている唯一の障害であり、その要求に連合国がこだわるなら日本は最後まで戦わざるえないと言っている」(フォレスタル海軍長官の日記)
ニューメキシコの砂漠では初の核実験のその時が刻一刻と迫っていた。準備は整いオッペンハイマーは実験をトリニティー(三位一体)と命名した。
新兵器を手にした優越感、この優越感が以後、アメリカと世界を変えて行く。
「大統領も私も核実験の成功を知ってからは、彼らを参戦させる事はどうでもよくなった」(バーンズの回想)
原子爆弾はトルーマンの切り札となった。
「原子爆弾をヒトラーやスターリンの仲間が発明しなかったのは世界にとって確かに良い事だった。最も恐ろしい物のようだが、最も有用なものにする事も出来る」(トルーマンの日記)この日記からも、原発として活用する計画があることがうかがえる。
「患者の準備の状態と気象条件次第で8月1日以降、いつでも手術は可能になるだろう」」(グローブスからの暗号文)
原爆投下への秒読みが開始された。投下命令は、7月25日、太平洋戦略航空軍の司令官に発令された。トルーマンはポツダム宣言の起草を急ぎ、チャーチル、蔣介石に署名を求めた。
ソビエトはその間のプロセスから完全に外された。ポツダム宣言13条では、日本に対し無条件降伏を要求した上で原爆投下を臭わせた。
「右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす」(ポツダム宣言13条、末文)
テニアン島の飛行場では、1月前から原爆投下の準備が始まっていた。広島に落とす原爆リトルボーイは4.4トンのウラン型爆弾でロスアラモスで部品が製造されテニアン島で組み立てられた。
爆撃機はB29エノラゲイ。爆弾は高度9000メートルの地点から投下。40秒後(1945年8月6日、午前8時15分)、広島の上空600mで爆発。核爆発により火の玉ができその温度は摂氏100万度に達する。火の玉は音速を超える速度で周囲の空気を焼きながら広がった。
広島原爆投下の2日後、ソビエト連邦は対日宣戦布告を行った。ただちに150万人のソ連兵が満州の国境を超えて侵攻、日本軍は敗走した。
テニアン島では2発目の準備が完了。ファットマンは初の核実験に使われたものと同じプルトニウム爆弾である。
1945年8月9日午前11時2分、観察する科学者を乗せたB29から長崎上空に上るキノコ雲を撮影した。戻ってきた科学者たちは、爆撃機を『ネセサリー・イーグル』(必要悪)と新たに命名する。
こうして原爆は必要悪になった。
爆発の瞬間、熱線が襲い物体はその姿を影として残し焼失した。爆心の周囲200mでは人体は蒸発するか真っ黒に炭化した。それより遠くにいたものあるいはコンクリートの壁に守られた人だけが生き残った。
広島では、蜂谷医師が生存者の救護に当たっていた。
蜂谷道彦『ヒロシマ日記』
「8月9日 火傷、外傷の有無と無関係に皆一様に訴える症状があるのがわかった。被災者は全て食欲不振がある。その内吐き気、嘔吐を訴えるものがかなり多く入院患者の過半数はこれらの症状が揃っている」
「脳炎か脳膜炎か脳症状を呈して死んだ者もいる。つまり患者の症状は様々で一定の症状がない。火傷や外傷の無い者で全身に出血斑が現れ口内炎をおこし重体に陥った者がある。次から次へ変わった症状が現れるので私の頭は混乱した」
「18日、頭の髪の薄くなった者が出始めた皆、血色が悪く顔につやがない。顕微鏡さえあれば血球計算してみるのにと思った」
「20日、待ちわびていた顕微鏡が東京から到着した。我々の部屋の6人は、申し合わせたように白血球が3000前後であった。正常人の白血球は6000~8000だ。中には500しかないものもある。瀕死の重傷患者は僅か200しかなかった。その患者は採決後、間もなく死んだ」
日本列島北部へとソ連軍の部隊が迫っていた。アメリカは日本との和平交渉を急いだ。バーンズはトルーマンに天皇の今後をひとまず未決定にする事を提案した。
1945年8月15日 日本国民は始めて聞く天皇の声で戦争に敗れた事を知る。
1945年9月2日 戦艦ミズーリ号の艦上で全権代表団により降伏文書に調印された。原爆投下から1カ月後、マッカーサーとその部隊が日本にやって来た。
まずはじめに広島と長崎に向かったのは記者達であった。ミルフレット・バーチェットは原爆を生き延びた人たちが奇妙な症状に苦しむ様子を目にしたのだった。
【9月5日 イギリス デイリー・エクスプレス】
「広島では最初の原子爆弾が都市を破壊した30日後、かの傘下で怪我を受けていない人であっても未だに不可解、かつ悲惨にも死亡し続けている。それは原爆病としか言いようの無い未知の何かだ」
ヒロシマの黒い太陽2 投稿者 PMG5
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